民主主義への誤解
民主主義という思い込みへの危惧について書きます。今回、特に米国の民主主義は危機に瀕しており、トランプ支持者もハリス支持者も両方共に、「相手は民主主義では無い、私たちこそ正しい民主主義者だ!」と罵り合い、内戦を危惧する方もいます。しかもこの民主主義者たちは、民主主義をイデオロギー(観念あるいは政治思想)と思っていますが、民主主義とは集団での意思の決定と実行の方法です。つまり、民主主義によって民衆はそれぞれが自由で対等に思想を述べ、実行できます。
民主主義の環境下では、敵の存在を認めて戦争を始めることも許されるので、民主主義イコール平和主義では有りません。そして、民衆が自由意志で集まり、暴徒化して殺し合いが起きた場合でも、この行為は民衆の心の発意として許すのが民主主義であり、抑制してしまう指導者は偽善者で独裁者です。とは言え、殺人を禁じるのは、民主主義より上の概念ですから、その独裁者の行為は正しいです。
この様に民主主義は“かなり危険なシステム“で、これを金科玉条のごとく、「民主党」や、自由「民主党」とか、立憲「民主党」、国民「民主党」と冠にしているのは、政治家や、学者達が“民主”と言う単語を語呂の良さで使っているだけで、民主主義の恐ろしさと危険性に気付いていないか、自分が独裁者となって抑えるつもりなのでしょう。
そんなわけで、左翼政党にお進めするのは、“民主主義”では無くて“平和主義”でしょう。党名として「立憲平和党」なんてのが良いでしょう。しかし、これでは有権者からは腰抜けの税金泥棒の集まり、とみられるかもしれません。
さて、民主主義demo-cracyの語源は「一般の人々」と「支配、力」であり、合わせて「民衆の政府」、と言う意味になります。これは江戸時代までの日本では一揆であり、許されませんでした。キリスト教やイスラム教などの唯一絶対紳を信仰する民族では、人間同士の付き合いは神を介して行うのが正しく、民衆が勝手に話し合って法を決めるのは教義では許されない行為ですから、民衆の政府は有り得ませんでした。
そのため、近世までのキリスト教国では、王政と教会がお互いの権威を利用し合って国民を支配していました。それでも1789年のフランス革命で、民衆が政府を創り共和制となりました。これをきっかけとしてキリスト教徒の国々は、揺り戻しも有りましたが選挙制を採用して、「民衆の政府」の形態を作っています。
一方、イスラム諸国は未だに宗教の締め付けが厳しくて、イランの選挙には民衆の自由意志の入る余地が有りません。独裁体制の共産主義国家も、民衆の自由意志が認められない点で、同様です。サウジアラビアは選挙が有りますが役に立っていません。
さて神が八百万もいる日本の民主主義制度は、私達の期待通りに働いているのでしょうか、さらに日本人の心に合っているのでしょうか?日本人は自分達を平和主義者と思い込んでいますが、織田信長が比叡山の住民全てを殺したことがあり、心の底に虐殺の心が無いわけではありません。たまたま立憲民主党も自由民主党も敵対する党の支持者を皆殺しにしないのであって、心のどこかにその心が潜んでいても、教養がそれを抑えているだけです。現在の石破内閣を全員クビにして、高市早苗さんに任せたくなるのは、織田信長の心が私にも潜んでいるからでしょうか。
と言うことで皆様、民主主義が一番良いなどと思ってはいけません。代表民主制は共産主義に比べて効率とレスポンスが悪く、自由なことだけが取り柄の統治形態です。今のところ、どの民主義国家でもこれよりも良い制度が見当たらないだけであり、長い間には立法府は重箱の隅を突き合って任務を忘れ、行政府は自省の利益優先となり、司法は権威にすがって硬直しています。この3府は現在国民が期待する点には達していませんが、民主主義の手法では期待するところへ動かせません。
ドナルド・トランプが行おうとしている、現在の立法府は議会制民主主義のままで、行政府をイーロン・マスクとビベック・ラマスワミを使って効率改善する方法を見習いませんか。
日本は立法府の活性化が必要なので、衆議院議員を1県ごとの中選挙区+全国区比例代表制にして定員を半分に減らす。参議院は拒否権だけを持つ元老院として、任期を長く、議員を地方ごとの大選挙区で選んで、1.5院制とする。
問題は形式主義で創造性が無く働きが悪く、公共への奉仕心が無い各省庁の改善です。トランプ方式を見習って、各省庁の予算の執行に拒否権を持つ人材を選び、総理大臣の印を持たせる。この人物には、道徳と倫理の心を備えた合理主義者が必要です。こんな難しいことをマスクとラマスワミはよく引き受けたものです。日本人では、例えば前澤勇作氏に行政府全体の改善をお願いしたらいかがでしょう。